率直に申し上げて、小説家になるためには少なからず才能が必要です。
才能は合理的に説明がつきません。残念ながら。
そして、才能は、ストーリーテリング(B)であったり文体(C)に、その多くを見出すことができます。
もう一つ、さらに大切な才能(A)は、小説を書こうとする意欲です。
上記の関係性ですが、
A+BとA+Cの才能の持ち主は可です。
A+B+Cの持ち主はもちろん可ですが、それ以外のパターンはあり得ません。即ち不可です。
例えば、良い例として私自身について述べます。
私は、ご存知のとおり元下読み担当として、小説の良し悪し、またはどんな小説が面白いかなどを把握しています。
けれども、私は小説家にはなれません。
なぜなら、私には、Aという決定的な才能が欠けています。
また、BもCも怪しいものです。
つまり、批評したり判断する能力には、上記のA、B、Cのいずれの才能も不要なのです。
従いまして、
私が皆さんにお教えできるのも、才能、というレベルの内容ではありません。
言わば、「小説作成の作法」に他ならないのです。
ただし、この作法も、小説家になるためには必要なものであることは確かです。
どれほどの才能があっても、作法を知らなければ才能を開花させることはできません。
例えば、どれだけ優れたデザイン的な創造力、色彩感覚があっても、本格的なデザインの作法を知らなければ、優れたデザイナーにはなれない、と一緒です。
どの道にも、相応の作法があり、それを抜きには各々の道で大成することはできません。
けれど、才能も当然になくてはなりません。
ただ、この才能は、冒頭で申し上げたとおり、合理的には説明できない、というのが正直なところです。
生まれ持った創造力も一つの才能ですが、
後天的に、しかも突如として泉のように湧き出ることも否定はできません。
そして、その可能性は、誰しもが持つ可能性なのです。